あの柳宗悦も訪れた会津の匠。会津本郷焼「宗像窯」

2019/03/22

あの柳宗悦も訪れた会津の匠。会津本郷焼「宗像窯」

福島県会津美里町にて今回訪れたのは会津本郷焼の窯元「宗像窯」9代目・宗像利訓氏のもと。「蹴ろくろ」を使い成形される一つとして同じものがない氏の作品は海外からの観光客のお土産としても人気を博しています。作品の魅力、窯元を継ぐまでのいきさつに迫りました。

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民藝運動の三巨頭が訪れた窯元。

大量消費の時代にあって、じっくり付き合いたくなる器を代々作り続けている人がいます。今回、おうかがいした会津本郷焼の窯元『宗像窯』9代目・宗像利訓氏もそのひとり。当主であり、父でもある8代目・利浩氏の薫陶を受けつつ研究を重ねているのは、宗像窯伝統の緑釉(りょくゆう)を改良した白緑釉(びゃくろくゆう)。糖衣のように白濁した釉薬がかかった花器は雪深い会津の冬を、鮮やかなエメラルドグリーンは芽吹きの春を想起させます。

茶道具などのハレの日の器の一方で、「窯もの」として作り続けているケの日の器があります。その代表格が「鰊鉢(にしんばち)」。山に囲まれた会津の貴重なタンパク源として愛されてきたニシンの山椒漬けなどを漬けるための器です。特徴は光沢のある飴色の釉薬で、近年は海外からの観光客のお土産としても大人気。実はこの作品、1958年にベルギーで開催された「ブリュッセル万国博覧会」にてグランプリを獲得。風土や食習慣と強く結びついた美に見入られたからでしょうか。当時、民藝運動を牽引した三巨頭、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎も『宗像窯』を訪れたそうです。

そもそも焼き物がこの地に根付いたのは1593年のこと。千利休に「文武二道の御大名」と評された当時の領主・蒲生氏郷公が播磨国(はりまのくに)から瓦工を呼び寄せ、鶴ヶ城の屋根瓦や日々使う器を作らせたことに始まります。江戸時代に入り、陸奥会津藩初代藩主の保科正之公が瀬戸の陶工を招いて本郷村に窯を築かせたことで、本格的に会津本郷焼の歴史が始まりました。一方、『宗像窯』の先祖である宗像出雲守式部がこの地に移り住んだのは更に歴史をさかのぼった767年のこと。宗像大社(福岡県)の神主として、布教のため旧会津本郷町に移り住んだのです。その後、観音山に宗像神社を建立し、代々焼き物で生計を立てながら布教活動に専念。文政の頃、特に技術に優れた八郎秀延が自ら神官を辞して陶業に専念し、1719年には『宗像窯』の初代当主となったのです。

宗像窯の代表作「鰊鉢」。どっしりした形状に飴色の釉薬が光る。白い釉薬もアクセントに
「白緑水簾鶴首」。空気遠近法で描いた遠景の森を思わせる白緑は山に囲まれた会津の自然そのもの
白緑釉の急須ほか暮らしの器たち。「技術の修練のため、学生時代は急須を集中的に作っていた時期があるので思い入れがあります」

炎にまかせて思いがけないものができる登り窯。

江戸中期に造られたとされる『宗像窯』の象徴・登り窯を見せて頂きました。工房裏手にある急峻な小路を上がり、白鳳山麓に位置する小屋の扉を開くと、全長約20mの登り窯が姿を現します。町指定文化財でもあるこの登り窯、2011年の東日本大震災の激しい揺れで一部が崩れ、大きなダメージを受けました。しかし、多くの土木技術者の有志が「工学と芸術のコラボレーション」をスローガンに「宗像窯登り窯再生プロジェクト」を立ち上げ、2013年に復活を果たしたのです。現在、町内で稼働している唯一の登り窯ということもあり、遠方から見学者が訪れることも。そこで、宗像家の方々の留守中も小屋の外から登り窯が覗けるよう、扉の一部が開閉式の小窓になっていました。

登り窯の周辺には油分を含み、よく燃える会津産のアカマツの薪が積み上げられていました。この窯に実際に火を入れるのは3年に1度(それ以外はガス窯を使用)。その際は一度に5~600個の器を焼き上げるそうです。「炎にまかせて思いがけないものができるんです。本当の本当に納得できるものはまだまだ少ないのですが、焚き方も慣れてきたので、昔に比べてロスも少なくなりました」と利訓氏は話します。薪の窯は火加減を完全にはコントロールできません。そこで温度を確認するために見るのが炎の色。長年の経験が物を言います。他に使うのが「ゼーゲル」と呼ばれるコーン状の道具。こちらはある一定の高温になるとグニャリと曲がるそうです。

利訓氏が作陶のために使う材料はほとんどが会津のもの。釉の調合に使う自然灰もそのひとつです。「このあたりは12月から4月頃まで薪ストーブを使うのですが、その灰から昔ながらの製法でナラ灰を作っています。時間のかかる作業ですが、綺麗な色調を出すためには地道にデータをとり、研究を重ねるしかありません」と利訓氏は話します。

まるで古代遺跡のような「登り窯」。7つの焼成室が斜面に連なっている姿は圧巻
登り窯の中の温度を調べるために使う「ゼーゲル」。ある一定の高温になると、このようにグニャリと曲がる
登り窯のある小屋の中に積み上げられたアカマツの薪。薪を納入する業者とは普段から親交がある

「蹴ろくろ」が生みだす美しいろくろ目。

次に工房を案内して頂きました。凛とした空間に焼成を待つ器がずらりと並びます。そこで、「ちょっと何か作ってみましょうか」と利訓氏。工房裏手の白鳳山のものという土を練り、作業台の下で足を動かし始めました。「このろくろは『蹴ろくろ』といって、手ではなく足で蹴って回転させます」と利訓氏は教えてくれました。静寂の中に時折響く、コココッという「蹴ろくろ」の音。機械音とは違い、心地よく耳に響きます。

蹴った直後からろくろを見ていると、徐々にスピードが落ちていくのがわかります。器に刻まれる勢いのある指すじが、やがて滑らかな指すじへ──有機的な「ろくろ目」の美しさも味わいのひとつです。そうやって出来上がった器はどれひとつとっても同じものにはなりません。だからこそ手仕事の温かみが感じられるのです。

滑らかで美しい白鳳山の土。繊細な指先のタッチが、そのままろくろ目として器の中に表れる
作業台の傍には土から器を成形するための手作りの道具が置かれていた
「器は口当たりも大切なので」と茶碗の縁をなめし革でならす
工房の奥には焼成前の器が並んでいた。暮らしのなかの定番にしたいものばかりだ

一点一点、景色が異なる手仕事のよさ。

幼い頃から家業である器作りを目の当たりにしてきたという利訓氏。「親から直接言われた訳ではないのですが、物心ついた時から、いずれ家業を継ぐことを意識していました」と利訓氏は言います。本格的に陶芸の道に入ったのは20歳の時。京都伝統工芸専門学校(現京都伝統工芸大学校)で2年間、焼き物作りの基礎を学びました。その後、修業のため1年半ほど島根県の窯元に出向き、2008年には7代目・亮一氏と8代目・利浩氏に師事。「若い頃に外の世界で焼き物について学べたことは、技術的にも精神的にも貴重な経験になっています」と利訓氏は語ります。

敷地内には工房の他、新しいギャラリーがありました。ここには、当主の作品とともに利訓氏の作品も展示販売されています。そこで、「いぶし銀の光沢を出せるよう研究して作ったものです」と見せて頂いたのが「銀彩天目茶碗」です。漆黒の闇にオーロラのような銀彩がかかり、まるで宇宙のよう。手に持つと、すっと肌になじみ、とても滑らかです。実はこの茶碗、2018年に行われた「第2回中国陶磁茶器コンテスト」で銀賞に輝いた作品。中国・景徳鎮で開催された「中国景徳鎮国際陶磁博覧会」で展示された後、かの地の博物館(準備中)に収蔵されるそうです。利訓氏は「自分が作ったものが後世に残るというのは励みになります」と話します。

「これからも、代々受け継がれてきた技術や地元の素材を使い、時代に合った自分なりの表現をしていきたいと思っています」と語る利訓氏が、作品作りのアイデアを得るために出かける場所があります。実は工房のある旧会津本郷地区には岩崎山、羽黒山、観音山が連なる白鳳三山があり、宗像家の先祖が建立した神社がある観音山が、その場所にあたります。クルマで5~10分程ほど山をのぼり、お参りを済ませてあたりを見渡すと、ゆったり流れる阿賀川と色づく田園風景に目を奪われました。思わず深呼吸をしたくなるこの場所でアイデアを練り、土も、窯にくべる薪も、釉薬も、会津のものを使った利訓氏の作品は、1点1点、景色が違います。『宗像窯』を訪れ、自身と波長の合う器を見つけてみてはいかがでしょう。

2014年に出来たという真新しいギャラリー。ここで、利浩氏や利訓氏の作品を購入することができる
「銀彩天目茶碗」を持つ利訓氏。11月末にはこの茶碗の授賞式のため上海に出向いた
宗像神社の前からこの地を見渡す。「冬は寒く、夏は暑い会津の自然には畏敬の念を抱いています」
ギャラリー入口の暖簾にある「おあいなんしょ」という言葉はこの地方の方言で「おはいりください」という意味

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