群馬・前橋市 日本近代詩の父・萩原朔太郎

2019/04/01

群馬・前橋市 日本近代詩の父・萩原朔太郎

明治時代、医者の家に生まれながら、やがて詩人としての新境地を切り開いた萩原朔太郎。その生涯の足跡と功績、故郷・前橋との関わりについて、前橋文学館の館長であり、孫の萩原朔美さんに話を聞いた。

中広

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口語自由詩を確立し 詩壇に影響を与えた朔太郎

街なかを流れる広瀬川。水の音を聞きながらのんびり歩けば、前橋市ゆかりの詩人や文学者の詩碑と出合える。なかでも萩原朔太郎の名は、多くの市民にとってなじみ深い。

明治19(1886)年〜昭和17(1942)年。前橋北曲輪町(現・千代田町)生まれ。口語も含む自由詩で書かれた詩集『月に吠える』で、これまでの文語詩の世界を一変させた

「前橋市は詩人のまちです。同時期に平井晩村、高橋元吉、萩原恭次郎、伊藤信吉など、多くの詩人が出ました」と話すのは、萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち前橋文学館の館長、萩原朔美さんだ。就任3年目、祖父は朔太郎。 

萩原朔美さん

萩原朔美さん

萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館 館長 

「僕が生まれた時には、朔太郎は他界していました」と話す朔美さん。子どもの頃は県外に住んでいたが、前橋市には朔太郎忌などで母親と一緒に来たという。「西脇順三郎、草野心平をはじめとする詩人や、日本文学者のドナルド・キーンなど、名前を聞けば誰でも知っているような人たちが、朔太郎の作品について語るのを聞きました」。

とほく、ながく、かなしげにおびえながら、/さびしい空の月に向つて遠白く吠えるふしあはせの犬のかげだ。(『月に吠える』収録「見知らぬ犬」より)

朔太郎は、それまで文語体が主流だった日本の詩を大きく変え、後に口語自由詩を確立した。朔太郎の詩を知らない人でも、第一詩集の『月に吠える』というタイトルを、一度は耳にしているはずだ。

大正6(1917)年刊の第一詩集『月に吠える』(レプリカ、初版本)
昭和11(1936)年刊の『定本青猫』(初版本)

現代でも強い印象を残す朔太郎の言葉は、出版された大正6(1917)年当時、詩の世界に衝撃を与えただけでなく、流れを大きく変えていった。

朔太郎は明治19(1886)年、前橋北曲輪町(現・千代田町)で、腕がいいと評判の医師の長男として誕生。しかし中学校卒業後は、あちこちの県外の高校へ入退学を繰り返した。東京をさまよった末、前橋市に戻ったのは大正2(1913)年、26歳の時。

定職に就かない朔太郎を見る周囲の目は、冷たかっただろう。煩悶の日々を送るなか、手にしたのが、北原白秋主宰の詩誌『朱樂(ざむぼあ)』だった。白秋や室生犀星(むろおさいせい)の詩に心を動かされ、投稿した詩が掲載される。これがきっかけとなり、詩壇にデビューした。

『月に吠える』や第二詩集『青猫』では、近代人の寂寥感や複雑な感情を、口語を含む自由詩で表現。一方、後年は激しい怒りや悲しみを表現するために文語体で詩を書いた。

「柔らかく抒情的な詩も書くのですが、評論になると辛辣で、大胆に言い切る面はありますね」と、萩原館長は言う。

時代を超えて息づく 前橋市に残された文化

生家は、広瀬川を挟んだ前橋文学館の対岸に、昨年移築復元された。味噌蔵を改装して作られた書斎には、ヨーロッパの美術様式が取り入れられている。西洋好きで、都会に憧れていた朔太郎の一面が見てとれる。

萩原朔太郎の生家。写真左に見える書斎で多くの作品が生まれた

ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し(『純情小曲集』収録「旅上」より)

ハイカラ趣味のあった朔太郎は、写真や音楽にも興味をもった。自転車にも乗ったようで、遠方まで出かけて作品を書いたり、『自転車日記』というエッセイをしたためたりした。朔太郎の撮った写真には、前橋公園、大渡橋、赤城山などが写されている。

平成24(2012)年には、朔太郎が撮ったのと同じ場所、アングルで今の風景を撮影する展覧会を同館で開催した。カメラマンは萩原館長。

「私にとって幻のようだった朔太郎と、ファインダーの中で出会う、不思議な感覚でした」。前橋公園から、るなぱあくへ抜けるトンネルと日本庭園は、朔太郎の頃と全く変わっていなかったと、萩原館長は感慨深げに語る。トンネルはその後、改修されたが、当時の面影を今でも残す。

正式名称を前橋市中央児童遊園という、るなぱあくの愛称は、朔太郎の詩にちなむ。「遊園地(るなぱあく)にて」という詩の中で、遊園地をるなぱあくと表記したのだ。

また、本格的に音楽を勉強していた朔太郎は、マンドリンの楽団を率い、演奏活動も行った。これは後に、群馬交響楽団誕生の源流のひとつになったといわれる。

朔太郎が娘・葉子に買い与えたマンドリン

朔太郎が愛したマンドリン音楽を前橋市の文化にしようと、平成18(2006)年に前橋マンドリンフェスタ2006を開催。翌年から朔太郎音楽祭となり、市内のマンドリン楽団や高校生が参加し、近年では一般参加者も募り、より高度な演奏を目指している。

朔太郎音楽祭では毎年、マンドリンを使用した楽曲を筆頭に、バラエティ豊かな演奏が披露される

萩原館長は、「詩は音楽だと朔太郎は言っています。詩を声に出して読むと、なぜここで句読点を打ったのかがわかり、詩への理解が深まります」と言う。背景を知ると新たな発見ができる。これも文学の楽しみのひとつだろう。

しかし近年では、文学離れが進み、全国の文学館で入館者数の減少に悩む。同館では、朔太郎をもっと身近に感じて欲しいと、展示・表現方法を工夫し、館内を撮影可にした。撮影した写真は、SNSへの投稿も制限しない。企画展もひと捻りしており、2018年10月27日から2019年1月20日まで開催された展示は、「この二人はあやしい」という、風変わりで刺激的なタイトル。多くの人の目にとまり、朔太郎や文学に親しんでもらう機会にしようと、随所にアイデアを盛り込んだ。

平成4(1992)年に前橋市が現代詩を対象とした文学賞、萩原朔太郎賞を創設。公募は行っていない

「『月に吠える』は内務省から発禁の通達を受け、室生犀星がとりなして2篇の詩の削除で免れた一幕があり、世間が沸きました。朔太郎は、それまでと全く違う表現でデビューしたのです。それならば、当館も先端的な仕事をするのが使命です」

朔太郎の残した足跡は市内のそこここに残り、前橋市を文学の街たらしめている。日本の詩の新たな扉を開いた偉人に思いを馳せながら、街歩きを楽しんではどうだろうか。

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