鳥羽に城を築き、戦乱の世を駆け抜けた謎多き水軍の将・九鬼嘉隆

鳥羽に城を築き、戦乱の世を駆け抜けた謎多き水軍の将・九鬼嘉隆

2019/07/23

鳥羽に城を築いて、伊勢志摩両国の三万五千石を領した九鬼嘉隆は織田信長の長島一揆で頭角を現した水軍の武将。関ヶ原の戦いで石田三成に味方し、嫡子である守隆と東西に分かれて戦う。慶長五年、答志島で自刃。五十九年の人生を生きた。

中広

中広

戦国の世、志摩に生まれた九鬼嘉隆

九鬼水軍として名を馳せた九鬼嘉隆には謎が多い。「一説では熊野にルーツがあるのではないかといわれています。尾鷲の九鬼浦に勢力がいて、志摩の波切に移り、四代目・泰隆が田城城を拠点に。嘉隆が出てくるのは十六世紀後半です」と鳥羽市教育委員会で文化財専門員の豊田祥三さん。二〇一一年発行の図録『九鬼嘉隆ー戦国最強の水軍武将ー』を企画から執筆まで担当した。

嘉隆に関する資料は極端に少ない。また、相続争いのため、九鬼家は鳥羽藩から摂津国三田、丹波国綾部に分断され、関連資料も散逸。

豊田祥三さん

豊田祥三さん

鳥羽市教育委員会 文化財専門員

天文十一(一五四二)年、九鬼定隆の次男として誕生した嘉隆。当時の九鬼氏は一帯に存在した十三地頭の一つで、伊勢国司の北畠氏に仕え、水軍を巧みに操る一族として、一大拠点を築いていた。ところが天文二十(一五五一)年に父・定隆が亡くなり、嘉隆の兄・浄隆が家督を継ぐころに状況が一変。九鬼一族の強大化を警戒していた地頭勢力が反旗を翻し、北畠氏までも地頭連合軍に加勢して攻撃を仕掛ける。不利な状況に置かれ一旦は田城城に篭城するものの、浄隆が病死したこともあって敗戦。嘉隆は朝熊山方面へ脱出し、安濃津に逃れたとされる。

九鬼嘉隆 天文11(1542)年~慶長5(1600)年

数少ない肖像画(常安寺蔵)。鳥羽市は嘉隆の歴史を後世に継承していくため、九鬼氏が統治した三田藩とのゆかりで兵庫県三田市と「友好都市宣言」を締結。さまざまな交流が進められている

海戦にことごとく勝利し日本一の軍船を建造

再び世に登場するのは、敗走から十年近く経った頃。嘉隆は懇意にしていた滝川一益の仲介で織田信長と出会う。操船術に長け、沿岸の地理に詳しい九鬼一党は、海上制覇に役立つ特殊技能者の集団。直ぐに配下に引き入れられ、信長の北畠攻めにも従軍。北畠具教を攻め立て、大淀城陥落に貢献し、志摩の地頭勢力も一掃。信長から志摩国の領有を認められ、正式に九鬼氏の当主となった。

天正二(一五七四)年、長島の一向一揆平定でも頭角を現すが、「一番名を知らしめたのは第二次木津川口の戦いでしょう」と豊田さん。天正四(一五七六)年、一向一揆の中心勢力である石山本願寺や雑賀衆の補給線切断と海上封鎖を狙って信長は海戦するが、毛利水軍に大敗(第一次木津川口の戦い)。そこで信長から船の建造を命じられた嘉隆は、鉄の板を張り巡らせた鉄甲船を建造した。

そして迎えた天正六(一五七八)年。「再び海戦が始まると鉄甲船の威力をみせつけ、毛利水軍を撃退し、信長側の大勝利。このときが人生の一番いいときでしょう」と豊田さんは推測する。嘉隆は約三万五千石の大名へと出世を果たし、鳥羽を根城とした。

天正十(一五八二)年、本能寺の変により信長は自刃。後ろ盾を失いつつも、嘉隆は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉のもと、多くの戦功を挙げた。中でも秀吉の朝鮮出兵の際、軍船数百艇の建造が命じられ、前代未聞の大艦船「鬼宿(きしゅく)」を建造。秀吉は大いに気に入り、日本丸と改名させた。

しかし文禄の役で嘉隆は水軍総対象に命ぜられるも、朝鮮水軍の攻撃を受けて苦戦。「嘉隆はその後の慶長の役には出ませんが、御座船を設計するなど造船の技術は認められていたため、戦いの一戦から退き、造船支援にまわったと考えられています」と豊田さん。その最中、次男の守隆に家督を譲って、隠居の身となった。

秀吉が慶長三(一五九八)年に亡くなると、徳川家康が天下取りのために動きだし、関ヶ原の戦いが勃発。九鬼一族は、嘉隆は西軍側、守隆は東軍側へと分かれて参陣した。これは敗北での一族断絶を回避するための戦略といわれ、「早々に家督を譲った目的は、スムーズな相続のため。大名としての地位を何とか残さなければいけない、そう考える方が自然です」と話す。

関ヶ原の戦いで家康の東軍が大勝すると、嘉隆は鳥羽城を放棄して答志島へのがれ、他方、守隆は家康に対して父の助命を嘆願。最終的には認められたものの、すでに嘉隆は自刃した後だった。嘉隆の亡骸は遺言どおり答志島の築上山頂に葬られ、今も首塚として存在する。

嘉隆の存在を感じる鳥羽の史跡の数々

石垣が当時の面影を伝える「鳥羽城跡」は、海に向かって大手門を開いた水軍の城。陸側の玄関口であった相橋の城山側に江戸期からの石垣が残る。鳥羽ガイドボランティアの会の江崎満さんに、相橋から常安寺など九鬼ゆかりの名所を案内してもらった。

鳥羽城跡。平成23~25年にかけて初めて発掘調査が行われ、当時の瓦や埋もれていた石垣が見つかった
堀の様子がわかる相橋付近。武家屋敷とつないでいた。城側に残る古い石垣を確認できる

まずは九鬼家の菩提寺、常安寺。屋根瓦に九鬼家の家紋が記された本堂の裏手をまわると、九鬼嘉隆の廟所(びょうしょ)がある。歴代当主の五輪塔墓碑が並び、中央に嘉隆の墓碑。延宝年間(一六七三~一六八〇)のころ、丹波・綾部城主の隆季(たかすえ)によって整備された。嘉隆が答志島での切腹に使われた短刀も、寺宝として残されている。

常安寺の本堂裏にある九鬼家廟所。五輪塔が並び、墓石の両側にある灯籠に、寛延4(1751)年4月の銘がある

次に日和山のふもとの賀多神社へ。

江崎満さん

江崎満さん

鳥羽ガイドボランティアの会

「もう少し、足を伸ばしませんか」と、光岳寺へ向かった。ここには日本丸の板戸四枚が保存されている。杉板の襖は金をあしらい、船内の豪華さが偲ばれる。

鳥羽城跡周辺に残る水軍の昔に触れると、嘉隆の像が浮かび上がった。

鳥羽ガイドボランティアセンター2階の「九鬼嘉隆常設展」。ゆかりの品が数多く展示されている

この記事を書いたライター情報

中広

中広

中広は岐阜に本社を置く広告会社です。 地元の情報を各戸配布のハッピーメディア(R)『地域みっちゃく生活情報誌(R)』のブランドで発信しています。

中広 が最近書いた記事

おすすめのコンテンツ

特集

連載