「一本の釘」を打ち続けた三重の郷土画家に学ぶ平賀亀祐記念館

「一本の釘」を打ち続けた三重の郷土画家に学ぶ平賀亀祐記念館

2019/09/24

世界最古の伝統を持つ国際展「ル・サロン」で1954(昭和29)年、日本初の金賞を受賞した平賀亀祐は、世界が認める洋画家だ。志摩に生まれた平賀画伯の功績をたたえ、2011(平成23)年、志摩市大王町に記念館が開館した。

中広

中広

風光明媚な絵かきの町に記念館がオープン

パリを拠点に活躍した平賀亀祐は、太平洋に面した漁村、英虞(あご)郡片田村(現・志摩市志摩町片田)の出身。そこは明治政府が海外移民を奨励した時代にアメリカへ移った村人が多く、「アメリカ村」と呼ばれていた。平賀は画家を目指し十六歳で渡米、その十九年後にフランスへ渡った。

平賀亀祐(1889年~1971年)

16歳で渡米し、カリフォルニア州立大学美術科等で学ぶ。のち渡仏。パリで写実派の画家として成功をおさめる。明快で落ち着きある色彩でパリの街頭を多く描き、重厚で対象の質感をよく表す画家として、「壁の詩人」「光の作家」「速筆の名人」と称された。

『浜島風景 造船所 1966年(15号F)』志摩市浜島町には画伯の実妹が嫁いでいた。帰国時には浜島を訪ね、晩年日仏両国を行き来しながら画業に励み、日本国内でも各地で個展を開催

平賀画伯の絵画や、生前使用していた愛用品を展示する「平賀亀祐記念館」が、志摩市大王町にある。大王町は暗礁を照らす白亜の灯台や石垣・石畳のまち並みなどを題材に、学生からプロまで多くの画家が訪れる「絵かきの町」だ。絵になる風景が画家の心を魅了し、絵画コンクールも行われている。そんなまちに、郷土の誇るべき画家・平賀亀祐を後世に伝え、その情報発信を目的とする記念館が志摩市役所大王支所の三階に開館した。

平賀亀祐記念館
名前から、亀をモチーフにしたサイン。平賀画伯はフランスの画商サロンで紹介されたマリー・ビクトリーと結婚。男5人、女5人の子宝に恵まれた

志摩市が所蔵する平賀の作品の中から、唯一の自画像といわれる貴重な一枚も飾られ、フランスの風景画に混じって、浜島の港の景色も並んでいる。あるがままの姿を、誇張も歪曲もせず、正確に写実し、その光の加減からか、作品にはどこかあたたかみが感じられる。また絵画とともに展示されるのは、使用していた画材道具やトランクなど、遺族から託された思い出の品々。親族の平賀菊栄さんに取材の電話を入れると、「記念館のテープカットで志摩を訪れました。世界的に活躍した人ですが、日本で余り知られていないのが残念でした。記念館ができたことは遺族としても誇り。志摩から発信し、多くの方に平賀の作品を見ていただきたい」と、ふるさとでの常設展に期待をかける。

自叙伝にもたびたび登場するトランク。世界各国を旅し、精力的に絵を描いた
松村一さん

松村一さん

志摩市大王支所

会場では、伝記の『一本の釘』(一九七〇年発刊)が閲覧できる。画業で成功するという、決意がつづられた内容だ。平賀亀祐はフランスにいても日本人としての誇りを持ち、絵を描いていた。

片田からアメリカ西海岸 そして芸術のまちパリへ

片田村の漁師の息子に生まれた平賀亀祐。絵を描くことと西洋絵画への興味から、一九〇六(明治三十九)年三月、アメリカ移民の伯父をたよりに渡米。サンフランシスコ美術学校(現カリフォルニア州立大学美術科)に入学し、勉学に励むかたわら、生活費や郷里への送金のため、時計修理工や農園の手伝いをした。

一九一四(大正三)年、サンフランシスコ万国博覧会の美術展にて、一等から三等までを受賞。成績優秀のため特待生となり学費の免除を受けるが、働き続け、送金を欠かすことはなかったという。

学校を卒業し、本格的に絵を学びたいとパリ行きを決心したのが二十五歳の時。実現のため漁業や宝石商など、職を転々とし、渡航資金と学費を蓄えた。しかし、渡航直前に盗難に遭い、全財産を失う。同郷出身者の援助もあり、三十六歳でフランスに。アカデミー・ジュリアンに入学し、一九二六(大正十五)年、最も権威のあるフランスの官展「ル・サロン」に「扇を持つ婦人」を出品し、初入選を飾る。

ル・サロンのパンフレット。1954年にル・サロンにて金賞ならびにコロー賞を受賞し、四回連続入選のため会員に推薦

その後、同展において一九五四(昭和二十九)年に「古い巴里の街角」が日本人として初めて金賞とコロー賞(風景画部門の金賞)を受賞。同じ年に、フランス政府より日本人画家として初めてレジオン・ドヌール勲章(芸術文化勲章)を授与され、パリで写実派の画家として成功をおさめる。

『寺院とユール河 1959年(15号F)』ル・サロンでの実績など、正統写実派として、日本よりフランスでの評価は高い

長いフランス滞在により、ジョルジュ・ブラック、パブロ・ピカソ、藤田嗣治といった美術家と親交を深めた。第二次世界大戦の末期、平賀が国家主義者と警察に疑われ七カ月間投獄されたときには、ブラックやピカソなどの仲間が、政府に抗議し、平賀を救ったのだという。

五十年ぶりに凱旋帰国したときには、東京のブリヂストン美術館をはじめ、三重県立博物館や大阪、高知を巡回し、個展を行っている。日仏の文化交流や松方コレクションの返還に尽力した功績が認められ、一九一(昭和三十六)年に勲三等瑞宝章、紺綬褒章を受勲した。

一九七一(昭和四十六)年、パリ国際美術協会の副会長に就任するも、その年の十一月五日にパリの自宅で永眠。八十二歳だった。翌年には郷里の片田稲荷神社に記念碑が建てられた。

画業を成功させる 揺るぎない決意と努力

記念館に展示される画材の中に、自ら工夫して両端に穂先を付けた絵筆がある。平賀画伯は「速筆の名人」と称され、パレットは自作の三脚で地面に固定させ、両手で両端が使える筆を持ち、時には爪も使って仕上げていたという。その早描きで、生涯一万数千点の絵を残したそうだ。

亡くなる前の年に出版された伝記『一本の釘』には、「自分で選んだただ一本の釘だけを、いっしょうけんめいに叩け」と、平賀画伯の画業で成功することを誓った思いが記されている。目標を達成するために、ひたすら努力し続ける大切さを、郷土の画家から学びたい。

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