鉱石を採掘した歴史の全貌を今に伝える「熊野市紀和鉱山資料館」

鉱石を採掘した歴史の全貌を今に伝える「熊野市紀和鉱山資料館」

2020/02/02

紀州鉱山の象徴ともいうべき、山裾の選鉱場跡。全盛期の昭和四十(一九六五)年前後には、産銅量が三千トンを超えた。鉱石を採掘した坑道が至るところに敷かれ、総延長約三百キロ。その歴史の全貌を伝えるのが「熊野市紀和鉱山資料館」だ。

中広

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まちの一大産業を偲ぶコンクリートの遺構

熊野市紀和町板屋の緑の山を背景に、段々にそびえるコンクリートの柱群。これは石原産業海運合資会社(後の石原産業株式会社)が昭和十四(一九三九)年に建設した紀州鉱山選鉱場の遺構だ。斜面に工場が連なり、上部には固液分離装置のシックナー跡も確認できる。当時の選鉱処理能力は一日千トン。東洋一ともいわれ、国道もない時代に皇族が見学に訪れたという。一年三百六十五日、二十四時間操業していたことから不夜城とも呼ばれ、三年後には拡張して一日二千トンを産出。昭和五十三(一九七八)年五月の閉山まで銅を送り出した。

選鉱場横にはインクライン(勾配鉄道)のレールが敷かれ、その左脇の山へと開かれた坑口が操業当時を偲ばせる。紀和町一帯には、銅を主体とした鉱脈が数多く存在し、北山川、板屋川、楊枝川に囲まれた範囲に紀州鉱山の鉱区が広がる。その本拠地が板屋地区。各鉱区から板屋へは隧道(ずいどう)が通じ、鉱石輸送はもとより、鉱山労働者の通勤や住民の交通手段として利用されていた。「ここがすべての出発地点。地下十四階層、総延長三百二十八キロにおよんだ坑道への入口です。それに板屋から御浜町の阿田和には全長十四・七キロのロープウエーもありました」と教えてくれるのは「熊野市紀和鉱山資料館」の堀誠さん。架空索道で運ばれた銅精鉱は、阿田和駅の貯鉱場から各地の精錬所へと送られていった。

板屋にある選鉱場隣の坑口。各堀場から搬出された鉱石は、軌道によって効率よく選鉱場へと運ばれた。人の移動にも利用された
堀 誠さん

堀 誠さん

熊野市紀和鉱山資料館

歴史は古く、採取の種類も多い紀州鉱山

「鉱山で主役になりうる鉱石は普通、一、二種類です。佐渡でしたら戦国時代に銀山、江戸時代に金山。足尾などは銅山、夕張や軍艦島は石炭など、大半は一種類。それにも関わらず、紀州鉱山は金・銀・銅・石炭を十社近くの鉱山会社が産出していました。極めて珍しい鉱山郷です」と堀さん。古くは鉛山との文献もあり、また上川区で採取された日本最大の蛍石や、資料館裏の出谷川河川敷では、平成三十(二〇一八)年、世界初の新種の鉱物「ランタンピータース石」が発見された。

大蛍石。約77センチの群晶標本でブラックライトによる蛍光も鮮やか。熊野のパワーストーンとして注目されている

紀州鉱山の歴史は古く、奈良時代頃に遡る。大宝三(七〇三)年に紀伊の国から朝廷に献上された銀も、この鉱山の楊枝産出という説があり(『紀伊続風土記』『紀伊南牟婁郡誌』)、また東大寺の大仏を建立する際にも、大量の銅が供出されたとの記録が残っている。

採石のために掘った穴から出た水は、人力でくみ出した

古い坑道の壁に、十四世紀前半の南北朝時代の採掘を示す、「延元二」の文字が発見された。江戸期にも各地で採掘は行われ、銅山が開発された。当時の廃坑跡が大小合わせて八百ほど残り、楊枝川鉱山(水車谷)には、江戸時代に構築されたと考えられる屋敷跡や焼竈、坑道跡、働いていた人達の墓石群が残されている。

鉱山遺跡が残る水車谷の坑道に「延元二年」の文字。レプリカを資料館に展示する
「坑夫免状」。鉱山で働く坑夫の師弟同盟「友子制度」に加盟したことを誓約する

近代に入り、昭和九(一九三四)年から十二(一九三七)年にかけて小規模な鉱山を石原産業が買い取り、統合して紀州鉱山を設立。機械化され、大規模な採掘が行われ、全国的な不況にも拘わらず、景気がよかったという。小中学校は十三を数え、およそ一万人が暮らす、まさに鉱山のまちであった。「板屋銀座なんて呼ばれ、映画館が三つ、総合病院もありました」と堀さん。資料館にあるアルバムで当時の様子を垣間見ることができる。現在の紀和町の人口は千人程度だ。

資料館にある鉱山関連のアルバムから当時の暮らしぶりがわかる

閉山後、鉱床調査のためにボーリングを行ったところ、温泉が湧出し、地域住民のために入浴施設が開放された。その際、紀州鉱山鉄道の軌道が入浴客の足として再利用され、観光用に「湯ノ口温泉」から「小口谷」間を「トロッコ電車」が運転している。

近代鉱山の疑似体験と先人の知恵や技術を紹介

選鉱場跡近くにある熊野市紀和鉱山資料館は、熊野市との合併前、平成七(一九九五)年に紀和町が町制四十周年を記念してオープン。紀和町の重要な産業として営まれてきた鉱山の歴史や取れる鉱石について、詳しく知ることができる。

熊野市紀和鉱山資料館

二階は紀和町の民俗資料、そして中世の頃の鉱山の様子が展示され、鉱石から銅を取り出すのに使われた「熊野床」の模型など、先人の知恵や工夫、技術が紹介されている。二階から降りるエレベーターには、一階が「地底」と表記され、モールス信号も当時をリアルに連想させる。一階の展示では、実際に使われていた道具や看板などを使い、操業時が再現されている。

また鉱石も紀和産出のものだけでなく、世界中のものを集め、不定期に入れ替えている。館内のあちこちに貼り出された職員コラムは、興味深い。入館者のリクエストで始めた採取体験や、粘土鉱石を使った美容講座など、資料館の持つ既存イメージとのギャップを武器に、堀さんがアイデアを出す。「来館者には鉱石マニアの人も多くて、大学教授と知り合いになり、アドバイスをもらうなど、わたし自身も学ばせてもらっています。質問があれば調べて、答えられなかったことは、次に同じ質問が来る前に解明するよう心掛けています」と、一つひとつ丁寧に向き合う。

「田舎の人は山だらけ、山ばっかりなんていいますが、すごい山があると胸を張れるところ。地面の下は宝です。ここには誇れる歴史があるんです」と堀さん。また、ここ紀和町において、鉱山の公害、鉱毒の出る精錬は、どこも一度も行われなかった。山の緑が残され、人々が豊かに暮らせるまちとして、今がある。山間の里に秘められた産業の歴史を、後生にもずっとつないでいきたい。

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