群馬・高崎市 洞窟観音と徳明園誕生秘話

群馬・高崎市 洞窟観音と徳明園誕生秘話

2020/12/04

人力で掘った長さ400メートルに及ぶ洞窟観音と、約6000坪の池泉回遊式庭園、徳明園。大正時代、呉服商の山田徳蔵翁(とくぞうおう)が地元の観光振興を目的に、私財を投げ打って完成させた同施設にまつわる物語と、先祖の意思を継承する4代目の決意を取材した。

中広

中広

人力によって掘られた400メートルの洞窟観音

高崎市の観光名所が集まる観音山。その丘陵斜面を採掘し、約50年の歳月をかけて造られたのが、洞窟観音と徳明園だ。

同施設が誕生したのは、今から約1世紀前にさかのぼる。大正時代、田町で呉服商を営んでいた、山田徳蔵翁が高崎の観光振興にしたいと一大事業を思い立ったところから始まった。

明治18(1885)年、新潟県柏崎市の米殻商に生まれた徳蔵翁は、雪に閉ざされる冬、関東へ出稼ぎに来ていた。その際、商人のまちとして栄えていた高崎のにぎわいに触発された徳蔵翁は、移住を決意。縮布の行商から山徳呉服店を構えるまでに立身出世し、若くして莫大な財産を築く。

【洞窟観音創設者 山田徳蔵翁】明治18年、新潟県柏崎市出身。山徳呉服店の創業者として一大で莫大な財を成し、政財界の名士と親交を深める。地元への貢献を目指し、約50年間かけて洞窟観音を完成させた

幼少期から観音菩薩を信心していた徳蔵翁は大正7(1918)年、「子孫に残す金があったら、それを投じて世の為に尽くしてこそ、真実の人間である」と考え、札所巡りのできる観光参拝場の創設を決意。観音山丘陵に約2万坪の土地を購入し、洞窟観音の建設に向けて突き進んだ。

ところが、現代のように重機もなく、人力で掘り進むしかすべのない時代。日雇いの労働者を雇い、強固な地盤にツルハシで挑む掘削作業は困難を極めた。

一方、昭和初期に入ると、観音山の山頂では、高崎白衣大観音の工事が大々的に始まった。「初代の言葉として、『あちらが空に行くならば、俺は地を掘り進む』という言葉が残っています」。そう話すのは、徳蔵翁の子孫で、洞窟観音山徳公園維持会4代目当主の、山田徳蔵さんだ。最新重機を導入した高崎白衣大観音の建設現場に対して、洞窟観音は人力の作業。世間の人々から変わり者扱いされつつも、徳蔵翁は自身の信念を貫いたのだろうと思いを馳せる。

一般財団法人 洞窟観音山徳公園維持会 4代目当主・山田徳蔵さん

また、観音像や石像の製作を全て手掛けたのは、当時の若手石彫家、高橋楽山(らくざん)氏である。石像の素材には、同氏の郷里、新潟県魚沼市で切り出した、通称・小平尾(おびろう)石を使用。昭和5年からおよそ7年間かけ、三十三観音をはじめとする45体の石仏と石像を完成させた。その出来栄えの見事さから、石彫家としての楽山氏の評価は急上昇。これが出世作となり、名工として知られるようになっていく。

洞窟深部に現れる巨大空間に置かれた7体の観音像。20メートル近い高さの天井まで、溶岩や三波岩で装飾が施されている様は圧巻
三十三観音の17番、高橋楽山作の衆宝観音。服や装飾、風になびく髪まで、すべて1枚の石から削り出されている

工事開始から約50年後の昭和39 (1964)年、徳蔵翁の命が尽きると共に、全長800メートルを目指していた掘削作業は中断。しかし、人生をかけて成し遂げた一大事業は今もなお、子孫の手によって守られ、当時のまま姿を残しているのである。

コンクリートで覆われた洞窟の入り口付近。外気の影響を受けにくいため、室温は1年中17度前後に保たれている

閉園の危機を乗り越え 次の世代へ受け継ぐ決意

洞窟観音の最大の特徴は、1枚の石から削り出された観音像の美しさはもちろん、背景の装飾までに込められた、ストーリー性にある。「例えば、仏教画に見られる観音様の背景、雲や岩上、山間、滝壺なども、浅間山の溶岩や藤岡市などで産出された三波石を壁面に貼りつけ、丁寧に作り込まれています」と山田さん。地中に隠された壮大な空間デザインに、徳蔵翁の感性が垣間見える。

洞窟採掘時に出た大量の土は、隣接する徳明園の盛り土として使用。日本建築の大家、金子清吉氏が作庭し、明治神宮庭園にも関わった二代目後藤石水氏の造園した同園は、約6000坪の広さを誇る。

すり鉢状に造られた高低差の激しい池泉回遊式庭園に加え、枯山水、石庭、苔庭の4エリアで構成される同園。その庭木のほとんどは、植樹されたものである。春のツツジや山桜にはじまり、初夏のアジサイや青紅葉、秋の紅葉など、四季折々の風情が楽しめるのも魅力のひとつだ。

同園は近年、紅葉の名所として知られるようになったものの、「実は私が法人の代表を継ぐまで、積極的な広報活動はしていなかったのです」と山田さんは振り返る。

洞窟観音は、徳蔵翁自身によって設立された財団法人の運営により、昭和11(1936)年頃から一般公開されていたが、徳明園はあくまでも私邸内にある個人所有の庭であった。昭和50年代に初代の邸宅を改装した資料館、山徳記念館をオープンしたのを機に、庭の公開も始めたが、集客には力を入れていなかったという。

山田徳蔵翁が晩年を過ごした邸宅を資料館として公開している山徳記念館。その構造は大正浪漫様式の洋館と日本家屋、地下の防空壕から成り立っている
観音山丘陵金沢山の斜面に、洞窟観音掘削時に出た土砂を盛って造園した徳明園。例年11月初旬から12月下旬にかけて、紅葉の見頃を迎える

しかし5年前、4代目当主に就任した山田さんは、「地元の観光に貢献したいと人生をかけた先祖の思いを、このまま風化させてはいけない」と決意。庭の整備や洞窟内の看板設置、ホームページの作成など、創設者の思いに報いたいと動き出した。

一時は閉園を検討するまで荒廃した時期もあったものの、4代目の地道な努力が実り、少しずつ来場者も増えた。「創設者、山田徳蔵翁の思いが詰まった洞窟観音を、次の世代にも残していきたいですね」と、山田さんは未来を見据える。

一世紀の時を超え、今もなお、穏やかな表情をたたえる洞窟観音。鮮やかな紅葉を愛でながら、地元ゆかりの豪商が残した名所を訪れてみてはいかがだろう。

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