続日本100名城・高天神城 信玄・勝頼親子と家康が争った地
2021/01/14
「高天神を制するものは遠州を制す」とも称された高天神城は、遠江(静岡県西部)を代表する中世の山城。武田信玄・勝頼親子や徳川家康によって高天神城をめぐる数々の攻防が繰り広げられました。激戦地ならではの進化を遂げた「一城別郭」の構造などを味わってみませんか?
お城情報WEBメディア「城びと」
武田信玄が攻略をあきらめた堅城
三方が崖に囲まれた標高約130mの鶴翁山(かくおうざん)に高天神城は築かれました。東峰と西峰二つの尾根が鳥の翼のように延びる要害の地。二つの曲輪(くるわ)が補完し合って一つの城として機能する「一城別郭(いちじょうべっかく)」と呼ばれる構造をもちます。築城者ははっきりしないものの、室町時代に今川氏が遠江(静岡県西部)侵攻の拠点として築いたとされます。戦国時代には、武田信玄や徳川家康を巻き込んだ激戦地となりました。
永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川氏が衰退した後は、徳川家康の勢力下となりました。元亀2年(1571)、武田信玄が京への上洛を目指す途中、2万5000騎を率いて攻めます。信玄は攻めかかるものの攻略が難しいと判断し、包囲を解いて退却。結局、大きな戦いは行われませんでした。当時の信玄は、戦国大名屈指の戦力を保有していたにも関わらず、高天神城を無理には攻めなかったのです。
武田勝頼が攻略し弱点の西峰を強化する
天正2年(1574)には、武田信玄の四男であり、武田家を継いだ武田勝頼が2万騎で攻めます。迎える徳川家康は、織田信長に援軍を要請するものの、石山本願寺と長島一向一揆との対決の最中で、信長は動きが取れない状況。そのため、家康は勝頼との戦いを避けるしかありませんでした。約1カ月におよぶ籠城戦の末、城主・小笠原長忠(おがさわらながただ)は降伏。勝頼は父・信玄が攻めるのを避けた高天神城を手に入れたのです。
難攻不落と思われた高天神城は、西峰(現在の西の丸方面)の守りが弱点であり、武田軍はその弱点を突くことで高天神城を攻略することができました。そのため、武田勝頼は高天神城を手に入れると西峰の守りを強化しました。
周到に準備をした徳川家康が奪回
武田勝頼によって強化され、ますます攻略が難しくなった高天神城。徳川家康が再び攻めることとなります。天正3年(1575)の長篠の戦いで勝頼に勝利した家康は、反転攻勢を始め、天正5年(1577)から高天神城の奪還作戦に着手します。高天神城の周囲に砦を次々と築き、高天神城の補給路を断ち切りました。いよいよ天正8年(1580)には、家康が1万騎をもって高天神城を包囲し、翌年には孤立無援の高天神城を攻略しました。この時、高天神城では家康による奪回を心待ちにしていた人物がいます。家康の家臣・大河内源三郎。勝頼が高天神城を奪取した際に捕縛され、約7年間も幽閉されていました。現在も、幽閉されていたとされる石窟が城内に残っています。遠江を代表する中世の山城が気になった方は、ぜひ続きをご覧ください。