曽良の旅日記から見る松尾芭蕉と三重県桑名市長島町

2017/08/11

曽良の旅日記から見る松尾芭蕉と三重県桑名市長島町

奥の細道の旅を岐阜県大垣で結んだ松尾芭蕉は、休息もつかの間、新たな旅に出立する。伊勢神宮遷宮式奉拝のため、伊勢へ向かう途次、長島の大智院に逗留。曽良の旅日記に沿って、芭蕉の足跡を追う。

中広

中広

大智院に残る
芭蕉直筆の色紙

伊勢の遷宮拝まんと、
また舟に乗りて 【奥の細道】

元禄二(一六八九)年三月二十七日、松尾芭蕉は江戸深川を発った。

行く春や鳥啼き魚の目は泪

奥の細道の旅で最初に詠まれた句である。八月二十一日頃、大垣に到達。九月六日には、

蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ

という対の句を詠み、「行く春」から「行く秋」にかけて約百五十日におよぶ大旅行を終えた。

この旅に同行したのが河合曽良である。曽良は加賀国山中で芭蕉と別れるまでの行程、その後の単独行動、さらに大垣で芭蕉と再会して伊勢神宮を参拝し、十一月十三日に江戸深川へ帰庵するまでの全行程を記録した。『曽良旅日記』『曽良随行日記』と呼ばれ、紀行文『奥の細道』の実際を知る貴重な資料となっている。

大智院に立つ曽良の句碑。「行き行きてたふれ伏とも萩の原」の句は、加賀国山中で病気のため芭蕉と別れる際に書き残した

日記では七月十七日以降、「予、病気故」の記述が目に付く。八月五日、曽良は旅から離脱してしまう。「曽良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに」と、『奥の細道』で芭蕉は綴っている。「伊勢の国長島といふ所にゆかり」とは、大智院を指す。当時の住職・良成は、曽良の叔父とされている。

真言宗智山派長松山大智院住職 小出榮照さん
真言宗智山派長松山大智院住職 小出榮照さん
「十代から三十代までの青年期を長島の大智院で過ごしたそうです。『曽良』という俳号も木曽川の曽と、長良川の良を組み合わせたとする説があります」
大智院には芭蕉の句碑も建つ

曽良は八月十五日に到着し、大智院で養生に努める。

九月三日、大垣で芭蕉と曽良は再会を果たす。その三日後、伊勢に向けて芭蕉、曽良一行は揖斐川を舟で下っていく。


伊勢の国長島、
大智院に信宿す 【詞書】

九月六日の午後三時半、曽良は当時杉江にあった長禅寺で先に舟を下りて陸路、大智院に向かった。芭蕉の到着を事前に知らせるためと思われる。「舟は弱半時程遅し」と日記にあり、一時間ほど遅れて芭蕉が着く。

七日 七左・八良左・正焉等入来。帰て七左残り、俳有。新内も入来。 今宵、翁、八良左へ被行。今昼、川澄氏へ逢、請事有。寺へ帰て金三歩被越。木因来る。

翌七日の日記である。「翁」とは芭蕉のことで、七左、八良左、新内らは長島藩重役など、教養として俳諧を楽しむ人たちらしい。「俳有」とあり、俳諧が興行されたようだが、作られた句は不明だ。

芭蕉生誕の地である伊賀市にある銅像。ほかにも県内にはゆかりの地が多数存在している

八日 雨降る故、発足延引。俳有ども病気発して平臥す。

この日に出発する予定だったが、雨のために延ばしたという。大智院に逗留した際、芭蕉は色紙に挨拶句を揮毫している。

うき我をさひしからせよ秋の寺

元「輪中の郷」館長 諸戸靖さん
元「輪中の郷」館長 諸戸靖さん
「この句の詞書にある『信宿』とは二泊することで、本来は八日に出発するつもりであったことが、ここからもわかります」
長島藩六代藩主・増山正賢自筆による「蕉翁信宿処」の碑。寛政元(一七八九)年、芭蕉来訪百年を記念して建てられた

八日の「俳有」とは、大智院で行われた七吟歌仙をいう。歌仙は三十六句を連ねる連句のことで、七人で成す連句を七吟といい、その連衆は芭蕉・路通・蘭夕・白之・残夜・曾良・木因の七人であった。「病気発して平臥す」とあるが、曽良も出句している。

翌日の九日は快晴で、一行は舟に乗り込み、桑名に向かう。朝八時ごろ、桑名に上陸して、東海道を西へ。日永追分から伊勢参宮道へ入り、曽良の日記では「暗く津に着」と記されている。桑名から津までは十一里二十六丁(約四十六キロ)、これに長島〜桑名間を加えると約五十キロの距離を一日で移動したことになる。

元「輪中の郷」館長 諸戸靖さん
元「輪中の郷」館長 諸戸靖さん
「大智院で一泊延びたために、かなり急いだのではないでしょうか」
桑名市内の松尾芭蕉句碑 「宮人よ 我名を散らせ 落葉川」多度大社

しかし、翌日は一里半ほど先の久居に泊まっている。伊勢の神は僧侶などの剃髪者を忌むとのことで、神前に詣でられない。どうも芭蕉や曽良らの僧形が理由だったようだ。芭蕉は『野ざらし紀行』で外宮を参拝した折のことを

我僧にあらずといへども、髪なきものは浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。暮れて外宮に詣侍りけるに、一の華表の陰ほのくらく

と記しており、神前には深夜にしか近づけないと知っていたため、前日の強行軍の疲れを癒そうとしたのかもしれない。曽良の日記には、十三日に内宮を、十四日に外宮をそれぞれ参拝したと書かれている。

桑名市内の松尾芭蕉句碑「冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす」桑名別院本統寺

大智院帰られ候あいだ、
一宿いたし候 【曽良宛の書簡】

大智院は、長島藩主の松平定政が祈願所として開いたのが始まりとされる。本尊は不動明王。明治五年の学制公布の際、ここに長島学校(現桑名市立長島中部小学校)が開校された。

芭蕉の長島滞在は大智院逗留の三日間だけで、ほかに記録がない。諸戸さんによれば、その後も芭蕉は大智院をたびたび訪れていたようで、元禄七(一六九四)年五月二十一日付の曽良宛書簡に

(前略)一、長島大智院留守故、久兵衛殿へ訪れ、夕飯粥を所望致、暮がた大智院帰られ候あいだ、一宿いたし候。(後略)

とあり、大智院に投宿したことを伝えている。

桑名市内の松尾芭蕉句碑「明けぼのや しら魚しろき 事一寸」桑名市小貝須浜の地蔵堂(龍福寺)跡
元「輪中の郷」館長 諸戸靖さん
元「輪中の郷」館長 諸戸靖さん
「芭蕉の足跡は確かにわずかですが、長島に与えた影響は大きいと思います。長島藩主の増山正賢(雪斉)は芭蕉来訪百年を記念して雅会を開き、石碑を大智院門前に建立しました。藩主自ら筆を執っているのですから、すごいことです」

旅に生きた芭蕉は元禄七年十月十二日申の刻(午後四時)、門弟たちに看取られながらその生涯を閉じた。享年五十一歳。病床にあって詠んだ次の句が、辞世の句になった。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

桑名市内の松尾芭蕉句碑「今日斗り 人も年よれ 初時雨」桑名市東鍋屋町の旧東海沿い、本願寺跡
Yahoo!ロコ大智院
住所
三重県桑名市長島町西外面1219

地図を見る

アクセス
近鉄長島駅[出口]から徒歩約14分
長島駅[出口2]から徒歩約15分
播磨駅[出口]から徒歩約42分
口コミ・写真など

※この施設の情報はYahoo!ロコから提供されています。

地域みっちゃく生活情報誌『ぽろん』

地域みっちゃく生活情報誌『ぽろん』

毎月28日

中広が発行する、各戸配布型のフリーマガジン 発行エリア:三重県桑名市・いなべ市・東員町 発行部数:67,987部

ハッピーメディア『地域みっちゃく生活情報誌』とは

ハッピーメディア『地域みっちゃく生活情報誌』とは

中広が発行する、各戸配布型のフリーマガジンのブランド名 仕様:A4 中綴じ冊子タイプ フルカラー 100頁以内 全国30都道府県で132誌8,209,430部発行中!(2017年7月末現在)

この記事を書いたライター情報

中広

中広

中広は岐阜に本社を置く広告会社です。 地元の情報を各戸配布のハッピーメディア(R)『地域みっちゃく生活情報誌(R)』のブランドで発信しています。

中広 が最近書いた記事

RECOMMEND

SPECIAL

SERIES